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なぜ本音と建前があるのか?

愛に目覚めたい

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どうも

愛の戦士、けんすいまにあです。

今日はこんな話をしたいと思います。

本音と建前がなぜあるのか?

この問題について考察を

話していきたいと思います。

関連記事はこちら

全人類の自由と権利のためであり、自分の欲望を計画的に達成するため

結論から言うと僕が思うに

なぜ”建前”があるのか?

それは、全人類。すなわち自分を含めた人間の自由、そして権利を保証する為

であり

同時に自分の中の”欲”を本気で達成するため

だと僕は思います。

それを両立するためには

感情論だけで動いて達成できる範疇のことなら

達成できると思いますが

できるだけ長く

今の自分だけでなく

1秒先の将来の自分が

欲を達成し

満足している状態を考慮したいと思うのであれば

客観性が必要になり、その客観性は

全人類の自由と権利を保証することにつながると思います。

客観力の必要性

なぜ客観性が必要なのか?

それは自分の中の欲を本気で達成しようと思ったら

客観性を用いて、計画的な準備のもと

その欲望のために動く必要があります。

たとえば、死ぬまで見たいアクション映画を見続けると言う欲があったとします。

それをできるだけ長い時間

ただ単に”観る”だけであっても

継続するためには、

自分の貯蓄の心配であったり

映画を見れる媒体を選び、契約する必要性であったり、

時には映画館に行かなくてはいけません。

一見当たり前のように思えるかもしれませんが

自分の欲望を達成するために”客観性を持つ”ことで

自分の主観を切り離し、できるかぎり

危険を排除し、最短で望んだ結果を得たいと思うでしょう。

完全に主観を切り離すことはできないにせよ

ただ単にその映画を観るだけでなく

できるだけ長くそして”楽しむため”には

計画性は必須だと思います。

その計画性を下支えするのは客観性です。

好きだからといって

一日中映画だけを見ていると目も悪くなってしまいます。

体調も悪くなってしまうだろうし、

そもそもその映画が面白く無くなって

他の映画を見たくなるかもしれません。

そういった将来の自分が不満を覚えてしまう可能性がある限り

できるだけ長く自分の欲望を達成するための

”不安”を排除する必要が出てくる。

そんな不安のためにも

お金を稼いで、現在の自分や将来の自分が見たい映画を

できるだけ長い時間見続けることができるように

客観性を養う必要があります。

合言葉としての建前

さて客観力の大切さを見にしみて感じてみて、

もし客観力を備える”意志”と備えるための準備が整ったら

自分以外の他者との関わり合いを持つ時に

有効な手段が出てきます。

それが前述の全人類の自由と権利を保証するということです。

前述の他者との関わりを必要としない欲に関しては

自分のことだけでOKなこともあります。

それでも金銭面で

長い時間観たい”映画”を見続けるための

費用を捻出するために仕事をするには

他者との関わりが出てきてもおかしくはありません。

そしてもし、自分で完結するものだけでなく

社会から恩恵を受けたいという”欲”を

達成するためには

他者との関わり合いが必須となってきます。

他者とのかかわりで自分の欲(恋愛、または金銭や社会的成功など)を達成するためには

どうしても自分の欲と自分以外の人間の欲を認識する必要性があります。

客観性で自分の主観だけでなく相手の欲を感じれるようになると

今度は自分の欲を認めるために

自分を含め人間の自由と権利を主張する必要性がでてきます。

これは何も、全人類みな友達!

みたいな”博愛”からくるものだけでなく

自分の欲を客観視することで

できるだけ長く欲を達成するために

欲を出す必要がある時に”出す”力と

出してはならない時に出さずに

その場を乗り切る力をも与えてくれます。

そう、その欲を出してはならない瞬間

人間は言葉で自分を制御する必要性が出てくるのです。

言葉で制御する、それができるようになると

本音と建前という概念が生まれます。

自分の意志と進みたい方向性が二つに分かれる瞬間。

自分の”欲”を

自分を含めた全人間の

自由と権利の名の下に収めようとする力

自由と権利の壁を取っ払い広がり続けようとする”欲”

これがぶつかった時に

本音からでてきた自分の”欲”を出す危険性を感じたとき

自分を制御するための

その合言葉こそが、建前だと思いました。

嘘とは?

建前がどんなものか自分の中で整理がついたついでに

嘘とはどういうものなのか?

建前から比べて僕の見解をいいます。

嘘とは

全人類が皆一つであるということ

自分を含めた全人類の権利を尊重すること

そして自分の欲と

その折り合いがどうしてもつかなかった時

論理が破綻した瞬間の”言葉”

これこそが嘘だと思いました。

なので嘘は自分でも論理が破綻していることが”分かっているはず”

なのが嘘です。

建前は自分のなかの欲求に忠実になっているため

他者から見ると

論理は破綻していても自分のなかでの計画の一部なので

論理が破綻していないことが”分かっている”のが

建前だと思いました。

われながら

とてもしっくりくる理論なのではないでしょうか?

もし何かヒントになれば

幸いです。

ここまで見てくれてありがとう。

次の記事もお楽しみに!

けんすいまにあでした。、

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