【毎日一善】”版を新にするに当たって”を読み解く【善の研究-全注釈-】

一日一善

どうも

毎日一善

難しすぎて日を跨ぐ

三日坊主の親方です。

今回ら23-29ページ

版を新にするに当たって

読みました。

むずい

難しすぎるよ

まだ本編にすら入ってないのに!?

けどこの書の考えに至った著者の哲学的立場を

構築する重要な考え方

源泉的な屋台骨的な

そんな一面が書かれた

そんなページです。

さらっと内容の要約

刷るのが多くなって日に日に文字が薄くなっていってるから、今度印刷機械(版)を新しくしたよ

この本の内容は若かりし僕の考えに過ぎないし

これを機に今の自分の立場から色々書き加えたいけどさ

思想ってのはその時々に生きるものやから

十何年もをたった後から加えてもしゃーない

この本はこのままでいくで

最近のワイからすると

この本の内容はさ、

心的な、精神的な主観的なところから物事を見ていこうとする”意識”の立場からでさ

ぶっちゃけ論理じゃなくて、これ心理やんって

言われてもしゃーないと思う

けどワイの考えは単なる意識の立場からだけの話じゃなかったと、今となってもおもとる。

ワイの思想の中心とも言える”純粋経験”ってやつは

こっからむずいで

“自覚における[自分の知の領域からくる瞬間的な認知である]直観と反省”に行き着いて

事行の立場、すなわち

フィヒテが言う自己を嘘か本当か見極める活動である”自我”には活動と結果が同一であるってゆうててそれを”事行ジコウ”ってゆーててんけど

その考えを元に

絶対意志っていう立場に進んでさ

そっからギリシャ哲学に進んでいって

一転して【場所】の考えに至ったんやけど

その場所っていうのが

歴史的世界(弁証法的一般者)として具体的になって

行為的直観の立場として直接化せられた。(?)

この本で、純粋経験とか直接経験とかいう世界は今のワイからすると歴史的実在の世界だと考えるようになったんやけど

行為的直観。つまり行為は直観から生ずるものであって芸術的制作活動のような、そんな世界が純粋経験の世界やと

フィヒネルっていうドイツの物理学者であり哲学者が言うように

ある朝、花や鳥や蝶が舞う春の牧場を眺めて

色も音もない自然科学的な夜の見方に反して

ありのままが真である昼の見方に夢中になった

っていうように

ワイはなんの影響かは知らんけど

ずっと前から

実在するするのは現実そのままでなくちゃならなくて

物なんてものはそれから考えられたに過ぎないって考えをもってた

高校生やったころに金沢の街歩きながら夢中になって考えてたことを今でも思い出すわ

そん時の考えがこの本の元になってるとおもう

こんな多くの人に読まれるとは思わんかったし、重版までされるとは長生きしたなぁって思うわ

とのことです

わけわからん

出来るだけ砕いて

注釈にもなかった意味を調べたりしたけど

わからんかっなぁ

とくに行為的直観っていう概念が

今でも議論されてるみたいで

歴史を批判してるって言われてるらしい

まぁなんとなくやけど

ここの部分の注釈にも疑問を感じたなぁ

自分の経験から得た知識とか考えから、直感的判断が、行為を決めていくと、すなわち直観が行為を決めていくってけんすいまにあ自身思うのが

注釈の部分では

直観と行為は一見対立して矛盾するものって言われてて、あれ?て思ったなぁ

自分の行為ってたしかに

どうしてもしちゃう事もある

でも基本は信条とか考えに基づいて

自分の知恵をフル活用した上で行うよな?

でもこの本では

そんな直観と、行為は対立し矛盾してるのが

前提で話をされてて

西田さんがいう行為的直観ってのが

行為ってのは直観から生ずるもんやって

言ってる

普通そーじゃね?ってなったわ

まぁ行動が自分考えと矛盾することはしょっちゅうあるから

むかしの人は直観と行為は矛盾するもんやって考えてたのかもね

あ、あと

それよりも

その前の段階で

フィヒテの事行のところやけど

自我において行為と結果がおんなじであるってところが

なんかしっくりこんかったなー

自己が嘘か本当かわからんから

自我を立てて自己とはなんぞやってことを考えようとしたってことやろけど

自我による活動と結果は同じであれば

自己は本当って事?

同じじゃなかったら嘘って事?

そもそも結果論じゃね?

やろうとした結果出来ちゃった

やろうってのが先にあるから

それが意志であり、自我であり自己であるってこと?

やろうとして活動して結果うまくいかなかったらそれは自我でなくて自己でもないってのことで意志じゃないってとこと?

ここでの結果は多分社会からのフィードバックって意味の”結果“じゃなくて

自分からしようと思ってやった行為=活動

自分の動かしたいように体が動くっていう

“結果“なんやろな〜

そしたら辻褄が合うな〜

そこから絶対意志に繋がるってゆーてるけど

単に得意不得意じゃねーか?

まぁなんて考えるわけですが…

そこをごっちゃにしたら

その先進めなさそうなんで

自分なりにこう解釈しました。

最後に

この全注釈にもかかれている

フィヒネルの考え

汎神論的唯心論

精神的生活が根源的本質的な生活で

物質的生活は世界の片方しか見ていないって

現在に一見無駄と思われる

“思想”を人間が持つのは

母の胎中にある胎児が耳や目を持つようなもので自分の精神が高次の生活を準備するものであると言った。

光も色も音もないただの原子の運動に過ぎないという物理学から見る世界、すなわち夜の世界

一方で

光も音も色もある世界、蝶が飛び芝生が見えるこうした昼の世界が真の世界である

動植物だけでなく、地球、宇宙が魂を持ち

それを分け合って生きている

と…

そんな考えを著者西田幾太郎はとても気に入っていたようだと

かかれている

僕も半分はそう思ってる

でもそれを完全に信じているかと言われたら

うーん、わからん

だからこの考え自体そもそも絶対間違ってるって思う人がいたら

この本から得られるものは少ないかもしれない

いや、弁証法的に

あるものを証明するときにその反対意見を立てて論する方法から見れば

反対の視点がわかるから

実は絶対に違うって思う人の方が得られる物は多いかも?

てなわけで

かれこれ4時間はこの本の5ページくらいと

戦っておりました

これ517ページありますからね

気長に地道に

ではまた

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