おためごかしな生き方について道徳的哲学の重鎮フランクファートが説く自律性と道徳心

懸垂(almost)

マニアック

懸垂マニアです。

今日はうんこな議論という

タイトルから飛び込んでくるような本を手にとりました。

【ウンコな議論】

この小学3年生が喜んで手に取りそうなタイトルからは

想像がつかないほど内容は濃かったです。

そもそもなぜ読もうと思ったのかというと

まずタイトルに惹かれたからです。(小並感)

そしてパラパラめくっていると

ある言葉に出会ったからです。

それは・・・

おためごかし…

”おためごかし”という言葉との出会い

まずは”おためごかし”という言葉の意味について

【ある人物自身の考えや感情、態度などについて、ことに思わせぶりな言葉や行動を通じた、誤解を招くような歪曲表現だが、嘘には至らないもの】

そう言われています。

例えばあからさまに原価が安いものの値段を引き釣り上げて

この番組を見ているあなただけに70%オフ!といって紹介する

テレビショッピングなんかはおためごかし盛りだくさん最高峰の番組である

嘘は言ってないが、歪曲された表現って昔からあるはずだけど、インターネットの時代になってある意味浮き彫りになってきた感があるんですよね。

 

その番組自体”おためごかし”の歪曲表現を”歪曲”だと証明する証拠がないため

そこにはなんと今だけ格安で70%オフで売られているのである。

”うんこ議論で押し通せる時は絶対に嘘をつくな”というこの本にも紹介されているように

そこに確固たる真実がない話題について

この本で”ウンコ議論”と揶揄(=からかうこと)される”おためごかし”が

堂々と存在する権利を与えられていると筆者は言う。

ウンコ議論をどう処理するか?

うんこ議論の源泉は

知らないや考えがないことを”良い”としない世の中の風潮から

もっとふかいところには

何事も疑りから入る懐疑論があり(普遍的なモノや一般的な視点に対する疑うこと)

人が客観的現実に信頼できる形でアクセスできる事はあり得ないと主張することから

物事全てが本当にどうなのかを知り得る可能性すら否定する。

こうした反現実主義の教義は何が真で何が偽かを見極めようとする冷静な努力の価値を失うもので

客観的検討が”まとも”なのだという信頼をも薄れさせる。

その極地が

事実に忠実であろうとする意味を失い

自分自身に素直になるしか無くなる事だ。

他者の信頼を放棄し

自分自身”だけ”に正直になるのは

他者との共存を否定した

“孤立した生き方”である。

  

ギクっ!!

この本を読むまでは

さてこの本を読むまでは僕はかなり偏った考え方になっていた

人の心は不可知であるということを知り

客観的検討の信頼性を疑い、飛躍して他者に期待してはいけないや信頼してはいけないと

その先には孤立した人生が待っている??

じゃぁどうすればいいんだ!

ここからがこの本の面白いところで

僕はてっきり”おためごかし”を否定し

なおさら”嘘”も否定し、自分に正直に生きろ!という流れだと思った。

いやいままでそう教わってきた。

まずは筆者であるフランクファートは

自分自身に素直になることすら否定した

自分自身だけに確固とした決まったものがあると勘違いすること自体がおかしいと

“自分”というものは

他の者との対応関係の中でのみ存在していると

断言したのだ

よって他の物。知らずして自分自身の事を知ることが出来ないと、

自分自身に関する真実が他のものすべてより理解しやすいなどという、

とんでもない判断を支持するような理論は無い。

たしかに人の心ば読めないと割り切ったところで

自分の本当の気持ちを探るよりも相手の気持ちを想像する方が簡単だとは言えない

むしろ自分の気持ちの方が矛盾していて

訳がわからない時が多く、一貫性を持とうとしても持てなかったりする。

フランクファート自身の経験上、人の本性自体、自他ともにおいて捉えどころがないほど実体に欠けているし、他のどんな物の性質と比べても悪名高いほど不安定で掴み所のないものだ。

そうである以上、

自他ともに認める“誠実さ”なんてもの自体がウンコ議論の屁理屈なのであると

誠実さなんてものが”歪曲された表現“嘘ではない表現であると

そのように彼は言った

なるほど

まずは自分も他者も”不確定なモノ”と考える視点を作ることが大事だと!

一見おためごかしをぼっこぼこのギッタギタに言い負かしているように見えるが

フランクファートはおためごかし自体を否定するようなことは言っていない。

さてでは”おためごかし”とどう付き合って、自分も他者も不確定なものとして受け入れることまではわかったが

そうはいってもそんな不確定な規範に従って

一寸先は何も決まっていないという不安定な道を進め!という方が

鬼畜なことを言うやつだと思った方もいるでしょう。

そんなフランクファートは何を道しるべにして人生を歩んで行けと語っているのか?

著者道徳哲学の重鎮フランクファートが考える道徳的責任”自律性”とは?

人としてやるべきことの行動規範を人間は”道徳”という目線で長年話し合って生きてきた。

道徳的判断をする責任、自律性=自分自身が立てた規範に従って行動すること

さて道徳的判断に則った自律性とはフランクファートはどこから来ると言っているのか?

善行と悪行、両方の視点から見た判断に委ねられた場合のみ“道徳的〜を語ることができる

僕もそう考えていた。

本当にそうなのか?

フランクファートはそうではないと言う。

例えば

嘘をつくことを心底良くないと信じている人を考える。

この人はどんな状況においても

脅迫されても殺されそうになっても大金を積まれても嘘をつくことができない。

これはいろんな計算の末に結果として本当のことを言おうと判断するのでは無く

どんな合理的な計算結果があったとしても嘘をつくおいう選択肢を持たない状況へ

自分自身を追い込むのだ。それこそがその人物の道徳的判断の賜物で、自分自身を律していることを示すものである、

よって複数の選択肢がなければ道徳的責任が無いという考えは間違いであり

選択肢がないことこそその人物の自律性だということ。

さてこの人物は道徳的責任の存在を示す

そうフランクファートは言った。

自由意志か、融通の効かない馬鹿か

さてフランクファートが言う道徳的責任のある自律性は

融通の効かない馬鹿であり、他の道徳とのバランスを失っただけなのか?

はたまた

自由意志によってあらゆる場面において融通無碍(=何ものにも囚われることなく自由)に選択できるのが自律性か?

それもただの無定見(=決まった意見が無い)な日和見(=物事の成り行きから有効な方につくこと)で、自分の損得勘定に従って選択するという

損得勘定に操られた自律性の欠如なのではないか?

たしかに嘘をつかないではなく、嘘をつけないひとは周りから見ると考えがなくどんな状況でも有利な方につくというずる賢いお調子者にみえる。

しかも、そもそもある立場において自分を追い込むこと自体がある種の長期的な損得勘定に基づいた行動では無いのか?

人はいかに生きるべきか?規範とは?

さてこんなことを考える人というのは

人生の立場で何かジレンマに悩まされている人が多いと思う。

オナニーしているとき、蜘蛛の巣に蟻を引っ掛けて観察しているときにそんなことを考えようとは思わない

どちらの立場の意見も気持ちがわかる

だからこそ人は悩む

道徳は人がいかにいきるべきかという問題に真っ向から応えようとしてる人達の答えの一つ

その議論はいつも最中であり、

フランクファートはこれまでの道徳というものは

実用的な規範をきちんと提供してくれないと

批判して言った。

なぜかというと

これまでの道徳は一般性や普遍性を重視してきたため、

不偏不党の大原則を振りかざすような話になりがちだった。

しかしながら先ほども述べたように

哲学や道徳を考えるとき人は”ジレンマ”に陥っていることが多いため

一般的な、普遍的な原則や、合理的矛盾のない体系によって人や社会の規範ができる発想を否定した。

ではジレンマに直面してまた新たなジレンマに迷い込んでしまったような状況で

フランクファートは人はどう生きるべきかという実用的な規範を何と示すのか?

道徳的哲学の重鎮が言う実用的な人生の規範とは?

フランクファートはそれを

すなわち実用的な、人がどう生きるべきかと言う問題を示す規範を与えてくれるモノの正体を

“意志”だと言った。

なんか2ヶ月前くらいに書いた自分の記事に意見が似ててびっくりした

自己世界第一歩目
自分ってなんだ?

ここでの意志は欲望や願望と一緒だ

性欲、食欲、その他の欲望はその他動物と一緒

しかさフランクファートに言わせてもらえば

人間にとって重要になるのは次の段階の意思だ

人は、自分自身どんな欲望を持ちたいかという欲望をもつ。

自分の欲望についての欲望、

そうそれが意志

意志こそが

その人が何者なのかを規定すると彼は述べた。

フランクファートはこれを二次的な欲望という

二次的な欲望を達成することこそが人生の目標であり

意志の力こそがその人をより豊かにする道徳的な生き方になる

そうフランクファーとは言います

僕はこう思う

 さて今回読んだ本”ウンコ議論”について僕はこう思います。

【欲望は満たされれるからこそ発揮される】

意志の力とか二次的欲求とかそんな話は今のあなたの生活水準が生活基盤がしっかりしているからこそ言える話だと

そもそも明日食べるものがない、寝床がない、自分がいま精神的に満たされていない状態で

意志の力が〜などと言ってられないと思います。

自分のなかで充分に満たされているからこそ

その先にある〜という欲望を持ちたいと思えるようになるんだと思いました。

例えば好きなことを生きようとおもっても

生きていく基盤がなければそもそも”それ”ができなかったら意味がないのとおんなじです。

生きて聞く基盤があっても自分の好きなことを曲げて生きていてもそれこそ元も子もない

自分の好きなことができて、生きる上で必要なものを確保できて初めて人間として

この世に生をもらった意味があるんじゃないかなって

そう思います。

これを聞くと自己中心的だの自分勝手だの孤独になってしぬだの言われるかもしれませんが

人間って元来孤独な生き物で、それを引き受けた上で作られていく人間関係だけがほんとうの意味で友だのなんだの言えると思います。

だから今は孤独を受け入れる時期なのかなって

まぁ難しいんですけどね

僕は孤独でもいいんだって自分に言い聞かせて

今は好きなことを感じることができるように感情を取り戻す練習中です。

このまま死にたくはないし

一人で死にたくはない

せめて自分の素のままで入れる人間を一人でも見つけて

自分のやりたいことをやって楽しい人生だったって思って死にたい

そう思う今日このごろでした

ここまで見てくれてありがとう

では次回の記事でもお愛しましょう

メメント モリ

けんすいまにあでした

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