世界の第一歩目 #2

懸垂(almost)

猿から生まれ変わる【本当の人生とは】

人間の3大欲求と言われるのが

食欲、性欲、睡眠欲

です。

こいつらの桁違いの魅力は

130億年の歴史によって育まれているため

抗うことは不可能なのです。

 

人間は本能によって動かされている

本能は”脳”が求めるモノで

その本能に従って行動することは

お猿さんよろしくです。

ちょっと言いすぎかもしれませんが、

パンくんが園長の首にひもを付けて司会進行を行う志村動物園。

もしこんな番組あったら

視聴率ガタ落ち、炎上必死です。

しかしながらその本能に従うことで莫大な力を得ることができるのも事実です。

社会の枠組みは【本能】が欲する欲を【悪いモノ】のように扱っています

だから社会を生きていく上で本能の力を

自分の中でどのようにして方向転換して

自分の進みたい道のエネルギーにするか

これがテーマになるんじゃないかなと思います。

 

もちろん

本能のままに好きなものを食べて寝たい時に寝れるだけ寝てやりたい時にやる生活

それはそれで面白いと腹を括っている方は強い。

それで十分に満足できるならそれでいいじゃないか

 

しかし

僕にとってそれは面白くない。

人間というのは【慣れ】がありますからね、、、

本能に沿った欲求のゴールは【慣れ】によってだんだんと

遠のいていきます。

ゴールテープが自分が走っている速度の倍の速度で遠のいていくような感覚です。

人生の最大の目標は

利他的で自己満足な欲求を探し出して

それに全身全霊を注ぐこと

 

それは人間としてこの世界に産み落とされて

脳が発達したことで猿から発展を遂げてきたことによる

”人間”にしか味わえない”快”を求めていくことです。

 

人間にしか味わえない”快”とは、、

二次的欲求とか、社会的欲求とか言われますが

それにもゴールはありません。しかし

幸せを感じる度合いはどんどん増えていくんだと思います。

上手くなったら人に喜ばれる、自分も成長できる、自分の重要感を満たすこともできて、世界とつながったような感覚を得ることができます。

 

本能をうまくコントロールして自分が求める二次的欲求である、社会的欲求を理解してあげて

たくさんの”快”を求めて死ぬのが本望。

きっと本能に抗ったその先にその世界がある。

 

本能が求める方向に身体を動かすだけの自動機械的チンパンジーの一生ではなく。

本当のリアル、生の感覚に生きる”人”生がある。

そう考えました。

 

自分の”真”の欲求を考える前に

人生に迷ったときは

自分の”死に際”にどんなことを考えるのか想像せよ。

どっかの誰かさんが言っていました。

僕も普段使わない錆びついた頭をフル回転させて

考えたところ

「死神が玄関をノックするとき 自分の人生が本能の赴くままに生きたことで何者にもならなかった、何も残せなかった、、、と思いながら連れて行かれる」

そんな憂鬱をいだきながら死んでいくのはまっぴらごめんだな・・・

無職でもいいけど無色は嫌だ!!!

このような結論に達しました。 

 

さぁそう言う結論に至ったのなら

次に自分の人生の方向性を定めなければなりません。

そりゃ興味のあること全部やって全部中途半端よりも

ある程度方向性を定めて極めるほうが

ずっと性分にあっていたからです。

 

さてその方向性は人間誰しもある得意不得意から見出すことができます。

この論争は”やりたいこと””できること”論争としてある程度悩みましたが

自分の中の結論からすると

やりたいことはできることの中からしか生まれないという結論です

やりたいことってそもそも自分自身の世界の中からしか生まれません。

したがってずっとやりたいこと≒ずっとできること

続けることができるのも好きだからです。

得意不得意で幅を狭めるのはもったいない。

できるコトの中のやりたいことのなかの得意なことを極める

そのできることを掘り返してみたときに

自分の中にある欲求が顔を出している

その欲求を知りたいと思うようになりました。

 

できるコトの中にある欲求を

”真”の欲求と表現します。

 

けんすいまにあの人間としての欲求はどこにあるのか?

 

”真”に”できること”であり”したいこと”である二次的な社会的な欲求はなんなのか?

 

往々にして表層と深層で食い違っている<人間も社会も>

さて錆びついた頭のギアに

オリーブオイルをさしてなんとか「自分の二次的欲求の在り処」について

考えるのですが、、

、、

考えれば考えるほど堂々巡り、最終的には矛盾しているので

まるで螺旋階段!

 

しかも上に進んでいるのか下に進んでいるのかわからない螺旋階段です。

 

さては、、、

自分の欲求を考える前に

矛盾が生まれる原因を考えたほうがいいのでは?

人生を考えたときに出てくる矛盾の根っこにあるのはなんだ?

と考えたところ

それは

  • 内的欲求と外的欲求のジレンマ
  • 脳が持つジレンマ

※ジレンマ - ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態。葛藤

にある結論に達しました。

さて内的欲求と外的欲求のジレンマについて説明する前に

そもそも内的欲求と外的欲求についてすこし説明

内的欲求=臓器的欲求=生理的欲求=一次的欲求

≒自己価値感≒内面自己

内的欲求は本能によって生み出される体の機能に直結した欲求です。それはうまれもった素質に加えて環境によって多少の変化するものですが、根本は人間誰もが同じだと考えています。例えばお腹が空くとか、美女がいたら振り向くとか反射的に生み出される欲、その思考から生み出されるのは莫大なエネルギーです。

続いて

外的欲求=社会的欲求=心理的欲求=二次的欲求

≒付加価値観≒外面自己

これは家族という社会集団、学校、会社と社会的な調和を求められたときに少なからず抑圧されます。そうしてムクムクと出てくるのがこの欲求です。ワイワイ盛り上がりたい、褒められたい、認められたいなど、、抑圧されて出てくるという表現だとなんだか外的欲求が一種の逃げのように感じるかもしれませんが、かの有名な心理学者マズローが言うように、より高次元の欲求であるといえます。

簡単に言うと

生きていくために必要だと体にプログラミングされている欲求が”内的欲求”

生きていく上で自らが必要だと感じた欲求が”外的欲求”です。

 

<内的欲求と外的欲求のジレンマ> 

内的欲求と外的欲求のジレンマとはどういうことか?

まず太っていて痩せたいと思っている人を思い浮かべてみてください。

スレンダーなかっこいい体を手に入れたい。

これは外的欲求である”承認欲求”が根本にあります

さて次に行動するときその人は自らの内的欲求である”食欲”をコントロールする必要があります。

すなわち外的欲求を達成するためには、真っ向から内的欲求と勝負して勝つ(ある種の調和)必要があるのです。

 

これが往々にして起こる内的欲求と外的欲求の食い違いです。

 

次に

<脳が持つジレンマ>

それは

内的欲求も外的欲求も満たされない状態があるからこそ

満たされたときの差によって脳が感じる報酬=快が大きくなる。

ということ

すなわち求めているものに執着することで余計に本来求めているはずの(快)が得にくくなる。求めようとすればするほど、手に入れば入るほど感じにくくなる得にくくなる。

これは脳が持つジレンマ、矛盾です。

 

苦しい分だけ幸せを見つけることができる。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」なんて言葉がありますが、

本来は自分の命をも捧げる覚悟があってこそ、危機的状況を打開することができる

こんな意味ですが、命を捧げる機会がめったに無い現代社会に置いて

欲があればあるほど【達成した”快”を得たいと思えば思うほど】、自分の命をも捨てるほどの欲から身を切り離すことができるかどうか?

そのような意味が込められているようなきもして・・・

我ながらしっくり来ています。

自分を洗脳できるのは自分だけだ

 日本人は目上の者に敬語で接すると思います。

しかしこれは日本特有で海外ではそのような国はとても少ないのです

これは中国から伝わった儒教が影響しているわけですが、

これも簡単にいうと洗脳です

しかし良いことがめぐってくるから良い洗脳として世の中に広まる

これが”宗教”なのです。

しかしながらこっかにうまれたからといって自分がその国家の宗教に従う必要はありません。

合わない宗教に従って自分の気持ちをないがしろにしていくとどんどん辛くなっていきます。

なので自分の中の神を作って自分を自分で洗脳する事が大事だと思いました。

 

自分が嫌と思うものは人にしない

同調圧力や社会のルールだからといって自分が嫌な場合はどこにでも逃げ道があることを理解することが大事です。

 

不安や心配で立ち止まることがあったとしても人から得られる価値感で生きるのではなくて自分から得られる価値感で生きるほうがよっぽど楽で確実なものです。

日本で自殺者が多いのはやはり自分の中の自分ルールを人のルールと同じにしようとして苦しくなってしまうことから来るのではないだろうかと思いました。

自分が自分であれる世界で羽を伸ばして生きるほうがよっぽど幸せになれると

僕は思ったのです。

 

次回に続く

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